1年前に藤を見ました
とても楽しかった思い出なのに思い出すと苦しくなること。
私は写真が好きなのでかなりの枚数を撮っています。
振り返ってあれこれ思い出す事には助かっていますが、大部分が母と共に旅をしたり、母と過ごした何気ない日常を残したものなんです。
今は思い出すだけ、見るだけでこみ上げてくるものがあり、なるべく「そっと」しているつもりですが、移ろいゆく季節や容赦なく進む時間の中で、「あのときは楽しかったなぁ」と自然に思い返している日々です。
楽しかった記憶というものは自分の財産であることに気が付きます。
私の趣味は旅行と写真、美味しい物を食べる事など、これらを実践していることで「生きている」と実感することができます。
写真を撮って誰に見てもらいたいのか?
元々は旅から帰って母と大型画面で一緒に見て、気に入ったものをプリントする、という習慣がありました。
部屋にも色々飾っていますが、今は虚しさが先行してしまいます。
前向きに生きようと決心したので、写真の母に語りかけたり、料理中に母に確認したりと、ハタから見たら「大丈夫か!?」なシチュですが、今のところなんとか正常心を維持できています。
写真はちょうど1年前に兵庫県の山崎というところにある大歳神社の千年藤です。
今日のように生憎の雨でしたが、傘をさしながら奇麗な藤を母と眺められた時間はとても貴重なもので、とても幸せでした。
雨の中、帰りに寄った道の駅でもお土産を選びながら楽しそうにしていた母の表情はいまでも忘れられません。
母の遺影はこのときの楽しそうな写真を使っています。
やっぱり遺影を見るたびに悲しみがこみ上げて辛くなってくるのですが、毎日思い通りの結果にならなくても、失敗しても、これからも母との思い出を大切に抱いて生きていきたいと思います。
読んでくれてありがとう。
明日は母の愛用していたリュックを借りて旅に出る予定です。
(フクロウのペンダントも忘れずに)
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